ヴァイツゼッカー「病院論研究」より
細菌学における病原菌の発見によって代表された時代の医学は、ある病気の原因を解明すればその本質もわかり、その徹底的な除去も可能だという期待を持っていた。輝かしい成果も得られたけれど、期待を裏切られることも多かった。次の時代はこの期待に対する断念から、今度は体質というものが病気の基礎として持ち出されることになった。体質の研究はやがて遺伝子学説へと変わっていった。しかし、遺伝疾患に対してなしうることは、どうしても最後の手段と言わざるを得ない。
細菌学的解明の範例にならった古い病因論と、遺伝研究に通じる新しい体質病理学は、ある意味では互いに補いあう面を持っている。外部要因の作用は、内部要因があらかじめ備わっていることを前提としているのだから。しかしこの二つは両方とも、病気が生成してくるときに起こっている事態をすっかり汲み尽くすものではない。というのも、病気とはそれ自身生成のさなかにあるもののうえに生じているのだから。だが、このことは新しいひとつの展望を開いてくれる。生命の生成というのはもちろん無計画のものではなく、あらかじめ措定された生の秩序に従って起こることなのだから、そこには病的事態に関しても、これまでまだ見いだされていない条件や注目されてこなかった意味が見つかるに違いない。そしてこの生成の中では、これまで原因と言われてきたものは誘因に過ぎないのであって、ただその発生する時点が重大な結果をもたらすのである。この生成のなかでは自然法則はあらかじめ方向を定められた軌跡にすぎず、それが全体にとって決定的な意味をもってくるのは一定の誘因が生じたときだけなのだ。
病気はなにかの偶然といった起こりかたをするものではなく、生命の情念的な動きから起こるものだ。その生成を捉えられるかどうかは、この情念の動きを追うことができるかどうかにかかっている。
偶然を体系化したり分子物理学的な精神で統計的に整理したりしてみても、病気の成立様式は叙述できない。統計的手法というものはむしろ、意味のある出来事から偶然を取り除いてしまう。夏の夜、灯火に集まる蚊の群を眺めてみると、その一匹一匹の欲望や飛行経路や運命や破滅はそれぞれ別々だという気持ちになる。だが群全体の密度や形態や拡がりを計算すれば、光への感受性、引力や斥力などの法則が見えてくる。全体は「向光性」を、そして個々の個体は「平均誤差」をもった「偶然」を表すことになる。
病気の完成形態ではなくその期限を探求する場合には、そこに現れる現象を統計的に整理するのではなく、その生成の跡をたどって、それをできるかぎり大きな連関のなかへ持ち込まなくてはならない。この連関をわれわれは歴史と呼ぶ。つまりそれらの現象を、実際に起こっていることのなかへ持ち込むのであって、法則として、可能性のかたちで起こるにすぎないことのなかへ持ち込むのではない。
われわれの生命のさまざまな状態像は目にも止まらぬ速さで継起している。しかし、われわれは、そこから小さな切片を取り出して実験室に運び込み、それによって生命を時間の不断の流れから引き離してしまうのではなく、それとまったく違ったコンテキストのなかでこれを見ることを学ばなくてはならない。必要なことはむしろ、自分自身を時間の流れの中へ投げ込んでしばらく時間とともに流れることなのだが、かといって時間のなかに沈み込んでしまったり、岸を見失ってしまわないことも大切だ。
ここで必要なことは、器質的疾患における心因の範囲と意義についての問いを、もう一歩、たとえごく僅かな一歩ではあれ、前進させることである。医者仲間では今日、器質疾患の心因という問題に関してはほとんどなんでも可能だとする見かたにあまりにも慣れすぎてしまっているのではないか。これに反して批判的な学問的主張をはっきり出す人たちは、通常、血圧・血糖値の調節といった機能が精神的な経路で変調を来すことだけしか認めようとしない。そしてこの厄介な仕事を神経系に押しつけて涼しい顔をしている。というのは、少なくとも脳皮質はそういったなんらかの[器質疾患と精神との]境界的な関係を司っているものと見なしていい、そんなふうに思い込んでいるからである。しかし実際は、どうして神経節細胞にとって精神への飛躍が肝細胞より容易なのかを明らかにするのは困難である。それだけではない。なぜ機能を持ち出せば、解剖学的構造を持ち出すよりこの飛躍が容易になり理解しやすいことになるのか、それも全然わからない。そもそも問題となりうるのは、はたして心因性の器質障害というものがあるのかということではなく、この<心因性器質障害>ということをいったいどう考えるかということなのだ。しかしその問いに答えることも、説明可能性を前提とするのではなく、生の事実それ自体を前提としてはじめて可能になるだろう。
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